大館鳳鳴 105周年記念講話

   世界一へ

       夢と挑戦  

           14期卒業生 鈴木久雄 (タイトル)

 

皆さん今日は。只今ご紹介頂いた鳳鳴14期生鈴木久雄と申します。

これから一時間半ほど宜しくお願い致します。

在校生の皆様、教職員、ご父兄の皆々様、本日は開校105周年、大変おめでとう

御座います。私も母校が更に素晴らしい歴史を積み重ねて行かれます事を心から

願う者の一人であります。

只今校長先生から経歴の紹介が有りましたが少し付け加えさせていただきます。

先ず、名前ですが 鈴木姓は日本で一番多い姓です。ホンダにも多くの鈴木が働

いていますので 私は若い頃から久雄の久を取って“きゅう”鈴久と呼ばれて参

りました。

これは、海外生活11年間もずっと使い続けまして SUZUQ で通してまいり

ました。(写―1) 鈴久が定着しますと、最後は久さん Q sanがあだなにな

りました。日本では有名なQちゃんが居られます。マラソンの高橋尚子選手はQ

ちゃんと言うニックネームだそうで、何故高橋選手がQちゃんなのか私は存じま

せんが、同じという事で大変名誉な事と思っております。

 

皆さんも、今日の講演を聞いて頂いて、おおー、何かQという変なおじさんが何か

言っていたな、と、いつか何かの時にふと思い出してくれれば、大変有り難いと思

います。

 

さて私の鳳鳴時代の思い出を少しお話ししたいと思います。

今日、こうして皆さんにお会いして、私達の時代との一番の違いは、先ず女性の皆

さんの多さです。私達の時代はクラス4〜5人でしたから、こんなに多くの賢い秋

田美人がいっぱいですと、何か少し圧倒されます。この年になっても少しあがりま

すね。

私は尾去沢から当時は越境入学致しました。厳格に言うと違反でしたが当時はある

程度の人数は認められていたようです。

陸中花輪駅から二年半、汽車通をしていました。当時は、尾去沢から花輪の駅まで

30分の歩き、汽車、当時は未だ蒸気機関車でしたがそれに揺られて1時間、東大

館から学校迄30分の歩き、トータル片道2時間、往復1日4時間の通学時間は大

変きつい毎日だったように思います。

特に、冬、雪が降った日は、こんな朝早い時間は道路雪かきラッセルも動く前でし

たから、相当大変だった覚えがあります。

学校での私は余り目立たない学生だったと思います。スポーツクラブはやらないし、

成績もパッとしなかったし、大学受験でもとっても東北大は無理、のレベル、見事

現役滑って、一浪して何とかひっかかって工学部に入りましたが、これは何として

もエンジニアになって車か船を作りたかったからです。

子供の頃から工作が大好きで、小、中時代の夏休みにはいろんな物を作って展覧会

で入賞して賞状をもらっていた。だからエンジニアになる事は非常に当たり前の様

に思っていたと思います。

卒業して40年になりましたが、今振り返って高校時代の想い出では、一番は友達、

仲間、 2番は恩師 故長山咲ニ先生と英語クラブ。長山先生は学級担任でクラブ

の顧問をしておられて、何もかもお世話になった恩師。 3番は強歩大会、私達の

時代は2年に一回、で、私は1年生と3年生の時の2回歩きました。これは苦しさ

も、楽しさも、ありがたさも、めずらしさも、今もって忘れられない。質実剛健を

モットーとする我が鳳鳴にぴったりの行事と信じています。

4番は全国クラスの9人制バレー。国体があって必死に応援した事は今でも良く覚

えています。(今で言うインターハイ1位が此処にあった)瞬く間に過ぎた3年間

でしたが、目標ははっきりしていたし、余り思い悩まずに単純な生徒だったと思い

ます。

 

仙台での浪人時代を含めた5年も大過なく、好きな自動車クラブを楽しみながら、

ソコソコの成績で卒業に漕ぎ着けましたが、今この時代を反省すると、中、高、大

学と、真剣に語学、特に英語を勉強しなかった事が悔やまれます。聞く、話す、読

む、書く、これをTOFEL、トーイックを満点に近いレベルまでやらなかった事、

これだけは悔やむ!

 

この英語の件については後程ふれたいと思います。

さて、いずれ皆さん処にも来ますが、学校を卒業して親の手を離れ、職を得て、と

にかく自分の収入で自活する・・

という時に、どうやって職場を見つけるのか、決めるのか?

今、終身雇用制度は、段々、制度として弱まっているとはいえ、それでも60歳以

上まで働く時間を考えると、人生で一番長い時間いる場所になるので、相当慎重に

ならざるを得ないと思います。

私の経験から言うと、

 1 自分が本当に何をしたいのかが一番大事。

   何をしたいから何になる と考える事。

   何になって何をするではなく。

   これは実は、中、高校で、あらかた決まっているかもしれない。

 2 もしそれがあるなら、次は個々の業界、会社の将来発展性等を考える

3 海外へ出たいか、日本でやっていくか、自分の希望。

そんなところを真剣に考えるのかなと思います。

 

さて、私が今日こうして此処で皆さんに話をしている理由は、大きく2つ有ると

思っています。

一つは、私が勤めていたホンダという会社が戦後生まれにも関わらず、そして日

本経済がバブル崩壊後の、厳しいデフレ経済の中でも依然として成長を続け、優

良企業と言われているから。

二つ目は、民間企業の現地トップマネージメントとしてアメリカ、ヨーロッパ駐

11年の海外生活経験を持っているため。

 

これらの事から、日本の将来を担う若い皆さんに何かしらのメッセージを発信でき

るのでは?と期待されたから だと思っています。

 

その線に沿って話を進めましょう。

それでは先ず、一つ目のホンダからいきましょう。

 

さて今何故ホンダが優良企業と言われているのかを考えたいと思いますがそれは

 1 非常に難しい経済状況の中での、ビジネスの発展、拡大の維持。

   世界中でのビジネス展開と 特にアメリカでの販売の好調。

 2 8兆円の売上、4500億の純利益

 3 リストラとは無縁の会社で雇用、納税での社会貢献が大きい事。

 4 環境、安全、先進技術で 世界でTOPレベルにある事。

     フューエルセル(燃料電池) CAR

     ロボット  ASIMO  等

 5 将来の巨大マーケットである中国市場へ他社に先駆けて参入し、着実、かつ

急激なビジネス拡大。

 

こういった事かと思いますが、ホンダを語る前に現在の自動車産業が日本経済全体

の中で、どのような位置を占めているのかをまず見てみましょう。

日本GNP ○○○兆円のうち ○○% ○○兆円

関連企業を含めると  ○○兆円

就業人口 ○○万人  関連企業加えると ○○万人 全就業人口の○○%

やはり、日本を支える巨大産業なのです。

 

その中の、ホンダの閉めるシェアは 売上金額  ○○% 利益 ○○%

ですから、そんなに大きな会社とは言えません。

 

しかし、ホンダを自動車、オートバイ、トラクター発電機やモーターボート等全て

の内燃機関(エンジン)製造会社として見ますと、何と年間1700万台も作ってい

まして、これはもう、とっくにダントツの世界一なのです。

勿論一番数が多いのはアジア各国のオートバイです。その次は汎用エンジンです。

皆さんのご家庭でも、もしかしたらホンダ製品をご愛用戴いているかと思いますが、

在校生824人ですから・・・20%の160人以上を期待したいところです。恐れ入

りますがホンダ製品が家にある方、手を上げていただけませんか?

有難うございました。期待どおりですが、我が社の製品に不具合の無い事を祈って

います。しかしながら、この際どうしても文句を言っておきたい、という方がおら

れましたら、講演後私の所に御出で下さい。

 

これから話します内容は、何かホンダ製品を使っておられる方はある程度興味を持

って聞いて貰えると思いますが、そうでない方にあまりホンダと言っても興味が無

いと思いますので、今元気な日本の企業 トヨタ Canon リコー (SONY

等にも共通する例としてのホンダと捉えてもらうのが良いかと思います。

 

さて話を戻しますが、そんな世界で見ると大して大きくも無いホンダが優良企業と

言われるのは、どうも規模だけの話じゃないな、と皆さんも感じてくれると思います。

 

さらに言うと利益4500億も日本では トヨタ NTTドコモ、NTT、に続いて第位

です。

 

私が考えるに、優良各社の共通項目として一つ出てくるのは、ワールドワイドなビジ

ネス、売上高に対する利益率、すなわち効率が挙げられるかなと思いまし、更に発展

拡大性の継続、将来技術に対する取り組みが世界でトップレベルというのがキーワー

ドかと思います。

 

ご存知の方もいるかと思いますが、ホンダという会社は戦後、昭和23年(1948年)

に本田宗一郎が42歳で浜松に作った会社です。作った時の資本金は100万円でした

(写―2)

この2年前、浜松に本田技術研究所と言う会社を作って始めたのが、戦時中に通信用

に使われていた陸軍の無線機発電用小型エンジンを改造して自転車に取り付けて、エ

ンジンの力を補助動力につかって、交通の便の悪い戦後の混乱の中で便利な安価な移

動手段を作った事がスタートになっております。

ガソリンタンクは湯たんぽだったそうですが・・・(写―3)

物の無い時代、交通手段が無く、人々の便利に寄与したいという宗一郎のアイディア

人々の共感を呼び、ソコソコの成功を収めたようです。

簡単に言うとオートバイ業界に進出した訳ですが、何と驚く事にその後僅か

14〜15年後の昭和35年(1960年)三重県鈴鹿市に鈴鹿工場を建設し月販3万台

のスーパーCubを商品として創りだし(写―4)、38年以降生産量世界一になってい

ます。僅か15年にして全産業の中では小さな規模とはいえ、世界一のオートバイ会社

に到達したという事です

この事実は簡単な事では無い訳ですが、では此処にどんな秘密が隠されているのでしょ

うか。

この時代私は未だホンダに入っていない時代ですから、資料や先輩の話等から知るしか

ありませんが、大きく次の事が言えるのではないかと思います。

それは、やはりなんと言っても宗一郎の思想だと思うのです。

 

「企業発展の原動力は思想である。

従って、研究所といえども、技術よりそこに働く者の思想が優先すべきだ。 真の技術

は哲学の結晶だと思っている。

私は“世界的視野”という思想の上に立って 理論とアイディアと時間を尊重し 世界

の人々が喜んで迎えてくれる商品を送り出す事に研究所の真の意義を感じている。」

(表―1)

 

 これは本田技術研究所 を本田技研工業から分離独立させ、子会社化した時の宗一郎

の言葉であるがこの中に全てのキーワードが入っているようです。

 

先ず、お客さんの便利の為に と言って、戦後の物の無い時代、だからこそ、物を動か

せば儲かる時代に 簡便な乗り物を作り出して商品をその時代の生活必需品にしてしま

った事。

マーケットを自分で作り上げる とも言っておりました。

そして、お客さんに喜んでもらう、迷惑は掛けないと言う顧客第一主義を徹底して貫い

ている事。今風に言うと CSICustomer Satisfaction Index)  NO1である。

これは具体的に言うと、オイルが漏れて服が汚れない様に、とかエンジンの音が静かで

なければ駄目 とか燃費が良くて故障しない事とか言って、世の中2サイクルエンジン

全盛なのに、コストが高くて商売し難い4サイクルエンジンにした事とかが他社との違

いを作り上げていったと思います。

 

次に世界視野 と言っているが、とにかく世界一になる事を強く望んでいます。

それは、良品には国境無し という言葉にも成っていますが、優れた技術は必ず人の心

を打って、受け入れられるという信念です。

この良品を作るためには、何としても部品の加工精度を世界一にしなくてはならないと、

1952年 資本金がたった600万の会社が45000万円も払って加工機械を購入してい

ます。

この様な考え方や行動は技術の分野に限った事ではなく、マーケットの開発も同様で、

1959年からアメリカマーケットを大変な苦労の上開発し、輸出によってドルを稼いで

日本経済に貢献する、という事に繋がっているのです。

この時代、ドルを海外に持ち出して海外に投資するのは、大蔵省と産業通産省の許認可

項目だったぐらい、ドルは日本に無かったのです。

 

時間の尊重とあるが、要は「直ぐやれ!」という事。

そして是は、当時世界で一番過酷なオートバイレースであった、イギリスマン島 TT

レースへの参加、と繋がっている。

1954年、ホンダはビジネスで大変苦しい状況であったが、「苦しい時こそ夢が必要だ。

明日咲かせる花の種は今が絶好の蒔き時。」としてTTレース出場宣言をし、全従業員

を奮い立たせている。(写―5)

このレースを戦って 勝つ という企業文化が 時間を大事に、早く、柔軟な考えや

行動というものに繋がったようです。

 

参加宣言5年後の59年に参戦するや3年後の61年 125CC250CC両クラスとも

1位〜5位までを独占、完全制覇を成し遂げてしまったのです。(写―6)

この時代、第2次世界大戦、戦勝先進国の工業製品と戦う事は、生易しい事ではなか

ったでしょう。素材、加工機械、部品精度、螺子一つから世界とは大きな差があった

時代で、これを克服して行ったのだから凄い事だったと思います。

具体的にはこの様な夢、思想、挑戦 行動、が僅か15年で世界を制覇してオートバイ

では世界一、という会社にしたのです。

 

世界一のオートバイ会社になったその時から、ホンダは4輪業界進出を図ります。

当時通産省が、日本にこれ以上の自動車メーカーは必要ない。今有るメーカーを行政

主導で育成強化しないとアメリカから強く求められていた貿易自由化に

対応出来ない。との考え方で特定産業振興臨時特別措置法(特振法)を作ったので、

ホンダは行政的規制に因って4輪メーカーにはなれない処に追い込まれそうになりま

した。

そこで宗一郎は通産省官僚と大喧嘩すると共に、一方ではそれならば、4輪メーカー

としての実績を作ってしまおう という事で急遽4輪開発を始めたのです。

 

この車がホンダ S600 とT360の軽トラックでした。(写―7)(写―8)

1962年 10月 モーターショーに出品し、63年9月にトラックを、1965年2月に

Sを発売して、4輪メーカーとしてのスタートを切ったのです。

ところで特振法は63年春、国会に上程され否決されたが故、ホンダは4輪メーカー

になれた訳ですが、もし法律が成立していたら今のホンダは無かった可能性の方が高

いと思われます。

そうだとしたら、戦後成功企業 ホンダ は無かった訳で私もここでこうして皆さん

に話をする機会も無かった事でしょう。行政に逆らってでも自分の夢を実現しようと

した宗一郎の強い意志が今のホンダを作ったのです。

 

さて、その様な時を過ごしたホンダに 私はその2年後の1967年(昭和42年に入社

致しました。

 

皆さん、私が入社した当時ホンダは勿論大企業ではなく、かといってそんなに小さく

も無く、典型的な中企業だったと思います。

確かにオートバイメーカーとしては生産台数(この年120万台)、商品性能、レース

成果、海外マーケット展開等の分野で丁度 世界一メーカー になった所では有りま

したが、その規模は 資本金91億円でほぼ今の1/10 売上高 1500億で今の1/50

全従業員11000人で1/13 の規模でした。研究所は800人で今全世界で技術者は

12000人とすると 1/15 。この年の研究開発費は30億円、最近のホンダの全世界

合わせた研究開発費は4000億だからざっと133倍。やはり研究開発費の伸びは凄い

と思うのです。

 

(この数値を見ると資本、従業員がほぼ10倍で売上50倍ですから、少なくてもこの

35年間で売上高に対して言えば効率4.55倍になったということですね。)

 

従って私は安定を求めて大企業に就職した訳ではありません。事実私がHondaに入社

したい、と大学の担任教授に言った時、「鈴木君、自動車をやりたいのなら、トヨタ

でも日産でもいすゞでも、何処でも行けるんだから、ホンダだけはやめておいた方が

いいよ。いつ潰れるかわからない会社だよ。」と言われました。

まぁ、それを振り切ってホンダを選択して入ったのですが、これからその辺の話をし

ていきたいと思います。

 

先ず私が自動車技術者になりたいと思った理由から行きましょう。

その当時は 3C時代といわれました。CAR、カラーテレビ、クーラー

です。これらが、「三種の神器」といわれ、お金持ちの人達の憧れの嫁入り道具だっ

た時代です。そんな時代、何と言っても自動車は相当能動的な工業製品で、私が感じ

ていたのは、個性的であると思っていた事です。

工学的に言えば、先端技術とか未来開発型技術では有りませんでした。

原子工学、応用科学、トランジスターの電子工学、花形でもっと個性、芸術的なら建

設学科 等がより将来的分野と言えたと思います。

 

しかし、私は動くものが好きだったのです。動くものは自分の意志を反映させられる、

という事です。

皆さんにとっては車は便利な移動手段で家庭に有って当たり前の物、時には環境の敵

だったり危険な凶器ともなったりで、もはや余り興味のあるものでは無いかもしれま

せん。

しかし、当時の私にとっては、車は工業製品としては異例に個性的な物だったのです。

形、姿は違うし、大きさも色々、走ると力があって速い車、遅い車、ハンドルがしっ

かりした車、ふらつく車。どの性能を取り出してみても皆違うのです。もっと小さい

もので言うとメーターだって、ドア触って開いて、閉めたって操作感も出る音だって

皆違うのです。

それが私にとっては皆 個性 という風に感じられ、この個性を作り上げていくなら、

長い間 物作り技術者をやっても飽きが来ないだろうと思ったのです。

36年間やってみて、これは大正解でした。

というよりも最近になって車の持つ個性の奥深さをつくづく感じます。それは人間と

同じであって、個々の人間は殆ど同じ成分で出来ているが、一人の個体になった時に

は一人として同じ人はいない。

工業製品としては車も人に近い位個性を持っていると私は感じています。

 

次にホンダを選んだ理由なのですが、

第一は、オートバイの4サイクルエンジンのところでも話ましたが、他所と違うと

う事です。当時DOHC 4バルブ、4キャブ と言えばこれはものすごく高価、高

性能なスポーツCARに搭載されるエンジンで、それが軽トラックに載っているなん

て、考えられない位ユニークなことでした。

世の中、何処も似たり寄ったり では無く、一線を画して違いを作る という

企業文化に惹かれた。という事です。

 

その次は、日本国内のみならず、世界、世界と言っていた事、言うだけでなくレース

にしても世界で戦って勝っていたし、4輪のF-1レースにも既に64年には参入し、

次の年6510月メキシコの最終戦で一勝を上げていた。(写―9)

世界を舞台にして戦う姿勢は、若い私達にとっては非常に新鮮だった。

戦後、古橋広之進選手が フジヤマの飛び魚 として世界新記録を連発し敗戦に打ち

ひしがれていた日本人に勇気と力を与えたのにつぐ快挙に私には思えたのも事実です。

 

給料が一番高く 33000 円 だった事。多分、トヨタ・日産より1000円か1500

高かったと思います。でも、これは大した理由では無かった。

以上が理由です。

 

さてそうして入ったホンダは、4輪進出をしたばっかりで、数は殆ど作ってはいなか

ったわけですが、私の入った年に N−360と言う軽自動車を立ち上げて何とか本当

の自動車メーカーになりたいと思っている時でした。(写―10

このN−360は、そのコンセプト、性能、価格どれをとってもその時代では信じられ

ない位他社車を引き離しており、日本のモータリージェーション(車社会化)の幕開

けの上げ潮に乗って爆発的な大成功を収めたのです。シリーズで43ヶ月(3年半)で

100万台を超えたのです。

この頃、4輪車の日本の生産台数は  1964170万台で世界4位、66228万台

世界3位、そしてN−360が発売された67年一気に前年比ほぼプラス90万台、前年

38%増やして 315万台世界2位に上り詰めています。現在は1000万台で世界2

位です。勿論1位はアメリカでこれはずっと続いています。

 

このN−360という車と、その次の次に作った CIVICという車(写―11)、アコー

ドという車(写―12)の成功によって、何とか4輪自動車会社と呼んでも可笑しくな

い会社になれたホンダは、今日ある優良企業に向って第2のスタートを切ったと言っ

てよいと思います。

そしてその時から36年間私は世界中を相手に、ホンダという日本企業で、企業人と

して、働くというよりも戦って来た と言った方が私の気持ちには合いますがこの体

験はやはり貴重なものと言わざるを得ません。大事なポイントをどれだけ皆さんに伝

えられるか解りませんが頑張って話を第2章へと進めたいと思います。

 

さて、4輪に進出し成功した会社として、では、世界の中で見たら今のホンダの会社

の大きさってどれ位なのかを先ず知っておいて下さい。(表―2)

自動車会社はどうしても、ある規模を持たないと生きていくのが大変難しい産業です。

それは、大規模な生産ライン投資が必要だし、そこで大量生産しないとコストが下が

らなくて競争力のある値段にならない。という事になっているからです。

それと共に、新車開発は相当大きな投資が必要な上に、開発した車がヒットして売れ

るかどうかを判断するのはとても難しく、もし規模の小さい会社が開発した新車が外

れると総ての面で悪影響が大き過ぎて、企業経営継続が難しい状態に直ぐに陥る。と

いう事もあります。

図体が大きいと、一つの失敗の影響が小さくて済む。 とも言えます。

そんな事で、自動車会社はあるサイズ以上ないと生きていくのが難しいのではないか

という事で90年代 世界中の会社がM and A(吸収合併)を繰り返し、最小でも

年間400万台作ってないと生きてはいけない。とつい先日まで真剣に語られたのです

400万台クラブ論】 この様子をグループで見るとこの様に成ってます。

(グラフー1)

ところが ホンダは未だ300万台に届かない、プジョーも300万台ちょっと、BMW

に至っては 100万台 この3社がどうも元気が良くて大きくなった

GM Ford ダイムラークライスラーは余り具合良くない。

という事で、当たり前ですがサイズ、数だけでは無いな と考えられ始めているので

すがホンダは未だ小さいな、と理解して貰えたと思います。

 

しかし、今度は見方を変えると、車というものが出来てほぼ110年、ホンダの車生産

の歴史は40年、その成長スピードを見てみると、これ位早いのです。(グラフー2)

他所の2〜2.5倍のスピードで成長して来ました。

自動車企業にとって大事な事は

1ある以上のサイズと 2成長スピードとその 3スピードの維持。 この辺がポイ

ントだと私は思いますが ではホンダについて

 

 @ 成長スピード  何故この様なスピードを作る事が出来たのか。

 A 商品、技術   世界一、世界初を目指す商品、技術開発について。

 B 人       どんな気質の技術者が作ってきたか?

この3点について話を進めたいと思います。

 

先ず スピードですが

理由の第一が本田宗一郎さんその人でしょう。既に私の入社前のオートバイ会社と

してのその成長の早さは、皆さんすでにお解りかと思いますがそれはかなりの部分、

宗一郎さんその人によるところが大きいのです。

時間を物凄く大事にした人です。何事も 直ぐに! という事です。

 

皆さん日本語の直ぐ という言葉は物理的にどれ位の時間を言うのか解りますか?

 この言葉は多分非常にあやふやで、物理量は無いのでは有りませんか?

もし直ぐやって、と言われても言いつかった内容にもよりますし、皆さんそれぞれ

に考えて、うん1時間以内、2時間以内、今日中、明日の朝まで、今週中かかるな、

等、直ぐイコール何々 と言う物理量は有りません。

英語も同じ事には成りますが、もう少しレベルがあって、SoonImmediately

NowRight Now、等細分されていると思います。

勿論日本語でももっと早くして欲しい時は 即 と言うのも有りますが、決まった

ものではなく尺度が不明確です。

どうやって決まるかと言うと、尺度はその人の気質であったり、その人の経験値で

あったり、希望値であったりするのです。

では宗一郎さんの 直ぐ は何でしょうか。それは 今 なのです。何を言い付か

っても今直ぐやりなさい。という事なのです。最大待ってもらっても次の日の朝ま

ででしょう。

宗一郎さんが亡くなる前4年間、所付 という所長補佐の立場にあった私は新し

い車が開発されると、何時も宗一郎さんの隣に乗ってお小言をもらっていました。

勿論その当時は既に現役を退いて居られましたが、創業者ですし、商品は必ず自

らの手で運転して評価しておりましたから、私達は必ずお乗せして、ご意見を頂

く場を作っていた訳です。

しかし、宗一郎さん程の人ですから(若い頃、カーチス号 というレースカーを

自分で作ってレースに出ていた程の腕を持っていた人ですから)(写―13)車に

乗って問題点や気に食わない点が無い訳がありません。そうすると始まります。

直ぐ直しなさい!最高顧問の試乗車ですから、此方も文句がつけられない様に最

高にチューンした車に御乗せしている訳で、直ぐ直せと言われても、簡単に直る

訳が無いのです。しかし宗一郎さんは椅子を持ち出して座って、直るのを待つ訳

です。私達は必死になって、指摘された事象を無くす為にあらゆる事を目の前で

やらなければならなかったのです。

ただ、そこで指摘された点を直すと、これを図面に反映して、お客さんに迷惑を

掛けないように と言って帰ってくれるのです。

現役時代は全てが万事 毎日がこれでしたから、仕事中は歩くのではなく走って

いました。(学校時代は廊下は走るな!でしたが)

研究所中皆走り回っていた。それは活気があったものです。

宗一郎さんの偉かった所は、社長で一番偉くて、一番怖い人に言いつかって、こ

っちは必死で仕事をする訳だけれども、何と自分でも次の日の朝まで考え尽くし

てくるという事なのです。

次の日の朝は こうしたら、ああしたら、こうではないか?と次から次へとアイ

ディアが来るのです。

この毎日新しいアイディアをひねり出して、それをどんどん実証し、どんどん先

に進む! というのが宗一郎さんで、私などはお父さん何時寝てるんだろうと真剣

に思ったものです。(宗一郎さんの事をみんな 親しみを込めて 親父とかお父さ

んと呼んでいました)

この気質 や やり方がスピードを作るという事に一番寄与したのだと思います。

 

次にスピードを作り上げたのは 3現主義だと思います。

この3現主義はホンダ用語になっていますが、トヨタさんにも 現場主義 と言

って殆ど同じ意味の言葉があって、会社として一番大事な考え方 と言っていま

す。 3現主義とは現場、現物、現実の事を言うのですが、何か事象が起こった

時は必ずそれが起こった現場に行って、現物を手にして、そして何が起こったの

か現実を徹底的に解明するという事です。

このやり方が一番大切で、これに勝るやり方は無い! という事なのです。

この3現主義は別に技術系だけの話ではなく、営業セールス、総務部門等あら

ゆる部門に共通するやり方なのです。

 

では、この3現主義について私の記憶に残っている事をお話いたします。

1970年アメリカ連邦議会でマスキー(議員さんの名前)法と言われる大気汚

染防止の法律が可決されましたが、これは並大抵ではクリアできそうも無い位

難しいと考えられた。排気ガス中の窒化酸化物、一酸化炭素 炭化水素などの

有害物質を十分の一以下にせよ、という法律でした。これは特にカルフォルニ

ァロスアンジェルスのスモッグが有名でしたが、このきれいな空気を返せと言

う人々の声 は我々自動車に携わる技術者が何としても達成しなければ、車の

未来は無い!と言うほどシリアスな課題であったのです。

どれ位、みんなが困っていたか、実例の写真をお見せいたします。(写―14

(写−15

これは本当に貴重な写真です。これを見たら出来ません、なんていえませんよ

ね!

しかし殆ど世界中のメーカーが、議会証言で出来ない と言った位、技術的

には困難なことと思われたのですが、ホンダは 1972年 CVCC という新

しい ENG技術を作ってクリアしてしまったのです。(写―16

 

世界に幾らでも大きくて、お金持ちで、長い経験と技術の蓄積がある会社が

いっぱいある中で、豆粒程のホンダがやっちゃったので、世界は大騒ぎしま

したが、この技術優先主義と CVCC がオートバイのスーパーカブと同じ

事になったのです。

さてそうして出来上がったCVCCエンジンだから、世界中のメーカーが疑い

の眼で見たし、技術を買いに来た。 GMFordもクライスラーもトヨタ

もいすゞも来た。(写―17)各社色んな注文を出したが、一番大きな問題は、

ホンダが作り上げたCVCCエンジンは 直列4気筒 。当時からアメリカ車

のエンジンはV-6V-8と言われる(写 追加―1) 大排気量 V型エンジ

ンで CVCC技術がこのV型エンジンに適用可能なのかどうかが問われた。

私は Fordに供給するべく V-8ENGCVCC化し、マスキー法を通して

しまおうというプロジェクトのメンバーとして働く事になったのです。

 

そこでFord とのコンタクトが始まった訳ですが、さすがにアメリカの大会

社で、全てがマニュアル化されていました。要は、マニュアルどおりやって

いれば何とか間違いなく仕事が進む というスタイルです。

これで給料もらえるんなら、人間は考える事を止めてしまうな!と思いました。

ホンダは小さいし、歴史も無いし、マニュアルも殆ど無し!

毎日宗一郎に怒られて、走り回って、例え文殊の知恵でも搾り出さないと給料

をもらえない会社。 この違いは大きかった。

V−8CVCC エンジンが出来て、大きなアメリカ車に載せて、デトロイトの

デァボーンのFord研究所に持って行った。私が29歳の1973年だったと思う。

僅か30年前、未だ海外に出る機会は余り無い時代だったので(未だ1ドル=

360円)仲間が和光農協(研究所が有ったのが埼玉和光市だった)の旗を立て

て見送りに10人以上も来てくれたし、女房と女房のお袋さんが羽田に一泊し

て見送ってくれた位、未だ海外に出かけるのが一般的ではない時代だった。

羽田からワイキキで給油してサンフランシスコに着いて、飛行機乗り換えてデ

トロイトに行った。今なら直行便ですが・・・・

現在では日本人はいとも簡単に海外旅行出来る様になりました。日本をその当時

と比べて、この30年間で最も変化率が大きいのは、ホンダが大きくなった事よ

りこの「海外に出かける」ということの方かも知れない。多分IT変化よりこっ

ちが凄いなと思います。

 

話が飛びましたが3現主義について話を戻します。

Fordに着いて仕事を始めた訳ですが、先ずそのサイズの大きさに驚きました。

車のエンジンを開発するには、決められた走行モードに従って車を走らせて排

気ガスを計らなければなりません。この装置をダイナモメーターと言いますが

CVCCを開発していた頃ホンダには4〜5基のダイナモしか有りませんでした。

ダイナモとはローラーがあってその上に車を乗せてローラーの上で走るのです。

そのダイナモメーターが何と40基以上もずらりと並んで、3交代24時間稼

動をしていました。

こんなに大きな、設備の充実した会社(これは特段 Fordに限らず GM

クライスラーもBENZもそして多分トヨタもそうだったと思いますが)がマス

キー法をクリアする技術を造れずに、ホンダが造ったという事は、技術開発と

は何なのか、どういう事なのか、を改めて私に考えさせました。

ホンダに天才がいた訳でもないし、やはりターゲットを高く掲げ、其処へ向っ

て勇気と知恵を持って挑戦し、やり遂げる事だな。と改めて思ったのです。

 

このダイナモメーターを使った仕事は普通3人で行います。(写―18

一人は車を運転し、一人はダイナモを操作します。そしてこの時代、有害物

質の CO, HC, NMog はペンレコーダーでチャートを書かせて、デー

タにしていましたので、このチャートがきちんと書かれているかが大事でし

た。

チャートが上手く書けてないとデータにならなかったのです。

 

基本は ホンダもFordも同じなのですが、ホンダの場合はこのチャートを

見ているのがエンジニアでした。このエンジニアは全部やる事を理解してい

ます。例えば今回のこのテストはどんな目的で、その為にどんな新しい技術

が入っていて、何処の部分でどんな効果が出るはずだ。それを理解してチャ

ートを見ているのです。従ってそこの部分に来て上手く効果が出ない、とい

う事がわかったらテストはそこで終わります。そして何故効果が出なかった

のかを考え、対策案を新たに考えて次に進む。これを繰り返し繰り返し行っ

CVCC技術に完成させたのです。

しかし、一見同じ様に見えてFordの場合はこのチャートを見ている人は何

を見ていたかというと、大事なデータのもとであるチャートのインクが切れ

ない様に見ていたのです。

このダイナモを稼動させる3人はデータが決められたとうりに、インクが切

れずに作れればそれで仕事をした事になるのです。そのデータに示された数

値は彼らにとっては何の意味も持たないのです。従ってデータが出来れば封

筒に入れてエンジニアの居るオフィスに送る。これが仕事です。

その数値を読むのはエンジニアで別のオフィスにいてテストの次の日か又そ

の次の日に結果を知って駄目なら其処から考え直す。

皆さん如何ですか?時間を大事にする、スピードを上げるにはどっちが良い

のか良く解りますよね。

これを、3現主義と言うのです。現場で現物を見て現実を知ってそこで判断

を下して次はどうするか、何をするか決めてしまう。これをスパイラルにし

て、目標に向ってどんどん進める。この方法を身につけて実践する。

これがスピードを造ったと私は思って居ります。

 

本田宗一郎の仕事の仕方もこの3現主義でした。会社の一番偉い人が現場へ

行って、現場で働いている人と物事を決めてしまう。それは、設計室であっ

たり

試作品を作る加工現場であったり、テストをしている場であったりあらゆる

現場でした。(写―19)幾ら小さい会社とは言え組織が出来て居ましたけれ

ども、社長が現場に来てどんどん物事を決めてしまうので、肩書きなんか有

って無いようなもので、皆中抜きされてしまった。だから高いピラミッド組

織を作っても意味が無く、結果としてフラットな組織体となった。

このフラットな組織は風通しが良い為、とにかくコミュニケーションが良く

なる。物事を早く決めるには何時でも皆が同じ情報を共有しているという事

も大事な要因で、今、元気な会社は大体こんなカルチャーを持っています。

 

本田宗一郎の時間を大事にするという考え方、長くは待てない気質(せっか

ちともいえる) 未知を早く知りたいからどんどん考えて新しいアイディア

を生み出す力、とこの3現主義がスピードを作ったと思います。

 

随分強調してスピード という事を話しましたが、何故かと言うと、これこ

そが今から再度世界のリーダーたらんとする日本発展のキーだと思うからで

す(50年に渡る戦後日本の経済発展を第一次とし、今を第2次へのスター

トの時としたい。日本なら出来るはずだ!!)

 

私は歴史は得意では有りませんが、人類が現れて今まで大帝国を完成させた

例は5つ有るかと思います。 ペルシャ、ギリシャ、ローマ、蒙古そしてオ

スマントルコ。

そのうち、ペルシャ、ギリシャは紀元前の帝国であり、紀元後ではローマ、

蒙古、そしてオスマンの3つのみが帝国だと思います。後ナポレオンとヒッ

トラーが多分大帝国を作りたくてTRYしたが出来なかった。

と言ったら、イギリス人に猛反対を喰いました。大英帝国はどうした、と。

しかし、大英帝国は少し意味合いが違っていて、大航海で世界中のあちこち、

手に入る所何でも良いから奪い取ったみたいで国民が血を流して築き上げた

帝国ではないと思うので私はあえて帝国とは言わない。

 

いずれにしても歴史的にはっきりした文化、文明を残し、あらゆる歴史的証

拠を残した上で大帝国を築いたのはこの3つと思います。

さて、蒙古は騎馬兵のスピードで戦争に勝って領土を広げ大帝国に至った。

ローマは世襲でないリーダーを造り、法律を作り、騎士階級の尊重等、戦い

のみならず色んな政策も含めて帝国とその長い歴史を作り上げた。

では、オスマントルコ帝国は何故出来たのか?私は知らなかった。

しかし、オスマンは最終的に1538年プレベェザの海戦でヨーロッパ連合か

ら地中海の制海権を奪って、ヨーロッパ、北アフリカも制覇、東は今の例え

ばカザフスタンのような、何々スタン国と呼ばれるエリアからですから本当

に広大な帝国を作ったのです。そんな大帝国を今のトルコ人が造ったのです。

皆さん今トルコと言ったら開発途上国みたいに思っているかもしれないが歴

史で言えば圧倒的に我々より進化した国だった。

96年ヨーロッパ研究所に転勤した私は、丁度トルコに4輪生産工場の建設が

始まって、ヨーロッパに居る内に3回程出かけました。

その時に知り合ったトルコ人の人に、この人はイスタンブール大学の歴史を

卒業した人ですが、何故あれほどの大帝国を皆さんは作る事が出来たのか、

と尋ねました。勿論いっぱいの理由が有ると思うのですが、その様に問わ

れて彼はかなり真剣に考えた末に、一つの理由として Light Weight 

Armor と答えたのです。

何ですかそれは?  トプカプ 宮殿に行かれましたか? いや未だです。

では行って見て下さい。 という事でいって見ましたが、それは鎖帷子でし

た。(写―20

要は、何10キロもある甲冑を着て戦っていた時代に、リスクはあるが軽い

鎖を編んだ鎧を発明する事で、兵隊の戦いのスピードを格段に早くする事で

勝ち続けたと言うのです。

これは私も少し驚きましたが、考えてみると蒙古は騎馬兵のスピードだし、

ローマも“道はローマに通じる”と言って真っ直ぐな路を張り巡らして全て

のスピードを上げる事で帝国を拡大、維持したし、なるほど、共通項は如何

にその時代に一番早いスピードを作るかという事だな と思い当たったので

す。

これからの時代、情報化時代になって、何もかもスピードが速くなってます

が、しかし道具は早くなっても人はもうそんなに早くはなれない と思うの

です。

そんな中で、やはり時間を大切にし、3現主義を徹底し何事にも早い対応を

行っていくという事で、成長拡大をしていく事が大事と考えています。

 

次に話題を物作りに付いての、世界一、世界初 という事に移りたいと思い

ます。

皆さんは今の高校生活の中で、世界一 を目指そうと言う目的をお持ちです

か? 例えばスポーツ選手の世界だともういっぱいあるし、水泳の北島選手

のように実現している人は居ります。その他どんな事が有りますか?

高校時代と言うのは、会話の中にもなかなか世界一や世界初と言うのは難し

いのでは無いかと思います。

しかし、皆さん実業の世界に入ると、いとも簡単に、あらゆるところでこの

世界一、世界初が出てくるのです。これは自動車会社に限られた事ではあり

ません。世界一軽いか? 世界一小さいか、細いか? 世界一薄いか? 世

界一強いか、硬いか? 世界一速いか? 世界一燃費が良いか? 世界一安

全か?

 

今、日本の元気な会社は、必ず何かしら世界一か、世界初を持っています。

戦後60年、日本の企業特に製造業はこの世界一か世界初を造り上げて来た

のです。

ですから、職場ではいとも当たり前に、世界一、世界初が目標とされており

ます。其れが日常茶飯事なのです。

私も36年間のホンダ人生の中で沢山の世界一、世界初 の中で生きてきま

した。

皆さんもいつの日か就職されて会社に行った途端に、この世界に飛び込む事

になります。

今世界一が作れないのなら、生き残って世界で戦っていくのはとても難しい

と思うのです。今までに皆さんにお話ししただけで、 オートバイ世界一会

社。   TTレース世界一制覇。CVCC世界初 、年間1700万台エンジン

生産は世界一

とホンダだけでもこれだけ有りました。

しかし私が働いた具体的なプロジェクトの中にもっと沢山の世界一、世界初

があります。

口では簡単に言う世界一。達成はなかなか難しいのです。

しかし、達成しなければもはや生きてはいけない。皆さん覚悟して下さいね!!

皆さんがどこかに就職し働き始めたら直ぐに、世界一目指せ、世界で初めて

か?

は日常の事になっていますよ。

 

私がホンダに居た内の世界一、世界初には次のようなものが有ります。

 世界一良い燃費・・・50マイル/ガロンのCRX。(写―21)  70マイル

/ガロンのインサイト。(地球温暖化 CO2 低減対策)(写―22

 世界初を目指したエアバッグ・・・残念ながら2週間程ベンツに負けて2

位だったが。

 世界一のスポーツCAR・・・・ポルシェ、フェラーリとは一線を画した世

界一の性能を持ったスーパースポーツカーNSXを開発(写―23

 世界初 ナビゲーションシステム・・・・車載用ナビゲーションコンセプ

トを最初に考え出したのがホンダで、今では普通になった基礎を築いた。

(写―24

 世界一綺麗な排気ガス ULEV(ウルトラ ロー エミッション Vehicle

を世界初で・・・エミッションンレベルはマスキー法時代の千分の一。

これは街中で吸い込んだ空気よりも奇麗な排気ガスを出すレベル。すなわち空

気清浄車。車が走れば走るほど空気が綺麗になる。

技術も此処まで来ると本物になるのです。(写―25

 世界初 2足歩行ロボット・・・・・ASIMOの開発 (写―26

此処でリスクマネージメント、バチカンの話を少しします。

人間への冒瀆に成らないか?を心配。

 世界初 Fuel Cell Vehicle・・・・Toyotaと同時1位。しかしこれは

行政指導に拠る。完成度の高さはホンダの勝ち!(写―27

小泉さんのコメント スイスイ走る、はホンダの車の事。トヨタの車はエン

ストして走れなかった。

しかしホンダが研究しているのは車だけではありません。

このように太陽熱利用の水素スタンドも真剣に開発してるんです。(写―34

 日本初。・・・・アメリカ人だけに拠るホンダ車の全開発。アメリカ研究所

を強化拡大し  ACURA CLクーペをアメリカ人のエンジニアで開発した。

ACURA CLクーペ。(写―28

この中で今日は 私の思い出が最も深いNSXの開発についてお話してみたと

思います。(写―23 を出しておく)

 

ホンダらしい、高性能なスポーツカーが商品として欲しいと言うのは何時でも

ホンダの願いであったし、夢でした。

何時からどのようにプロジェクトがスタートしたという事は有りません。何時                 

       でも何らかの技術を用意していたといって良いでしょう。

少なくとも、NSXの具体的なコンセプト造りがスタートする前に

   ミッドシップエンジンレイアウトの研究

   軽量オールアルミボディーの研究

   V−6 VTEC エンジンの研究

   高性能ススペンション の研究

等、次世代向けの新技術は通常の基礎研究テーマとして着々と進んでいました。

これらの技術素材をベースにして、ホンダらしい高性能スポーツカーを商品と

してラインアップに加えたい、と正式に決定したのは86年だったと思います。

 

コンセプトは、スポーツカーの常識を破るもの。それまでフェラーリにしろポ

ルシェにしろ高性能スポーツカーを運転できる人は相当の経験と運転スキルを

持っている人 と決まっていたがホンダのこのスポーツカーは、免許証を持っ

ている人なら誰でも運転できて、スポーツカーの魅力に触れられる、しかもそ

の持っている性能は競合車 ポルシェ911に勝る事。というものでした。

 

この時私は研究所取締役として研究所運営に携わっており、開発段階のプロト

タイプのテスト車が出来てどんどんテストが進む88年には常務取締になって

いてプロジェクトに深く関わらざるを得なくなっていました。

ホンダの4代目社長を務めた川本信彦が研究所社長をしていて、私に対する

ご指示は “久さん NSXは世界一ハンドリングCARだからね。ホンダは

スポーツCARから出発したんだから出来るよな! やってよね!”

これだけですよ。

確かに63年 S5004輪事業に参入したホンダだが、殆ど30年以上スポ

ーツカーなんか作っていなかった。それなのにフェラーリやポルシェを超えた

世界一のハンドリング性能の車にしなさいという命令です。

世界最軽量のオール アルミボディ、サスペンション(写―29)が使える見通

しがありV6 DOHC V-TECエンジン(写―30)は280馬力を出せる事は

解っていましたので、真っ直ぐ走る分には相当速く、ライバルを圧倒する事は

解っていた。

しかし、ハンドリング性能をピックアップしてその性能を世界一にせよ、とい

うお達しには困りました。

出来そうにも有りませんと言えればいいのだが、私も立場的にも簡単には断れ

ない状態でしたから本当に困ったのです。

ここでも言いますが、企業と言うのはかくも簡単に世界一を言うのです。

 

先ず、 どんな物差しを作って世界一を計るのか。世界一だと言うのか?

次に、 どうしたら本当の世界一性能をホンダが作る事が出来るのか?

最初のやるべき事はこの2点です。

 

私が考えた事は、今ホンダだけの力で世界一を作り出すには力不足。

従って、素晴らしい師範代と最強の道場が必要。 という事でした。

この人と場を決める事が最初の仕事となりました。

 

師範代は 黒澤元治氏 に御願いし、各ステップ毎にアドヴァイスを受けて

行くと決めました。黒澤氏は第一回日本グランプリ優勝ドライバーで、当時

自動車ジャーナリスト、車を操る技術は折り紙付きです。

皆さんの中にも元さんと言えば知っている方もおられるかもしれません。

 

さて道場は?道場の意味はハンドリング性能を鍛える場 という意味と、世界

一ハンドリング性能を証明する場所 という意味です。

世界一の性能を証明するには、世界一過酷なレーストラックを見つけて、そこ

でライバルより速く走れれば、世界一と言えるはず、と考えた訳です。

車が誕生したヨーロッパ。と決めて イタリア、イギリス、ドイツのトラック

を見て回って、最後に行き着いたのが ドイツの ニュルブルリンクのオール

ドコース。全長20km、標高差300m 、コーナーの数200以上で殆どがブ

ラインドコナー(先が見えないコーナー)

皆さん車未だ運転出来ないから、ちょっと解らないかもしれないけれども普段

車に乗っていて感じるのは、ハンドルを切った時にかんじる横Gかブレーキを

踏んだ時にかんじる前後Gなのですが、このニュルブルリンクは速く走ると上

下Gを感じるほど路面変化が激しい代物です。

この様に厳しいコースを速く走れる事が高性能の証。と思い定めて

此処にワークショップを開設する事を直ぐに決めて、世界一ハンドリングカー

を目指して、ボディ、サスペンションの剛性アップ、ブレーキの容量アップや

効き向上、それと速く走る為にはシートの身体保持性能が大事という事も判っ

て、ワークショップにミシンまで持ち込んで開発を始めました。

車を評価する立場にあった私は、急遽ニュルのドライビングスクールに入学し

て、開発に携わる一方、自分の運転スキル向上にも努めました。

45才の手習いをした訳ですが、腕は相当に上がりましたし、車に対する理解

度も確実に上がり、自信を持って車を語れるようになった事は、我ながら大き

な進歩であったと思っています。

 

さて、こうして出来上がったNSXですが、私はプロトタイプが出来た88

本社TOPに頼んで、アメリカシカゴショーで先行発表をしてもらいました。

スクープ、スパイフォトを無くしたのです。

これほどの高性能スポーツカーは機密を守って開発は不可能と考えたからです。

裸で、昼明るい時に走れないんなら開発不可能と考えての事でした。

新技術山盛り、世界一の性能を目指した開発はその後多くの困難に出会いま

したが、1990年 アメリカのホンダの高級車部門 ACURA NSXとして

デビューした訳です。

そして、この車は世界中の ジャーナリストの方々に“NSXは今でのポルシェ、

フェラーリと言ったスポーツカーとは全く違う新しいスポーツカーである。

素晴らしい仕事だ。“と言って貰ったのです。

アメリカの車雑誌 モータートレンドはその試乗記の中に、“NSXはコロンブ

スがアメリカ大陸を発見したのに続く新発見を皆さんに与えるであろう”とま

で言ってくれました。

そうしてデビューして既に12年。その基本コンセプトは変える事無く少しずつ

では有るが進歩を続け、昨年少し大きなMMC(Minor Model Change)を行

いました。

その中の タイプR バージョンはニュルでタイムアタックを慣行。

黒澤元治氏のドライビングの下、市販スポーツでは不可能と言われたニュルオ

ールドコース8分を切るタイムを叩き出しました。757秒。

その時の映像を皆様に少し見ていただきたいと思います。

 

3〜5分位 映像)(ビデオー1)

 

という事で、NSXは今でもホンダのフラッグシップカーとして、その商品

モデルラインのトップに君臨しているのです。

 

このニュルのオールドコースですが、我々がNSXを此処で開発した以降

、世界中の自動車会社の開発のメッカとなりました。当時 ポルシェとB

MWのテストトラックだったのですが今では ベンツ VWを含む全ヨー

ロッパメーカー、日本もトヨタ、スバル、三菱等がよく行っていますし、

最近は何とアメリカのGMがキャデラックの車開発のグラウンドとして使

い始めているほどです。

 

ホンダはこの時以来、必要な車はニュルを最終確認の場とすると共に、北

海道鷹栖ワインディングコースを作り上げ、このNSX 以降開発車の動的

性能の確実な向上を計って世界での商品競争力を高めて来たのです。

(写―31

 

世界一、世界初の具体的な話は色々したいと思いますが、ASIMOなんか

は皆さん興味が有ろうかと思います。実はこの場にアシモを連れて来よう

と思って画策して見たのですが、残念ながら、今活躍しているのは二人し

かいなくて、その二人が残念ながら、今日は別の予定があった事と、連れ

て来るには240万かかると解って諦めました。もう5年もすると多分十分

の一ぐらいになっていると思うので SSH校 としては 110周年の時

には呼ぶ事をお考えになられるのがよいかなと思っています。

と言う事でアシモを連れて来れませんでした。皆さんゴメンなさい。

しかし最近のアシモの活躍ぶりを見て下さい。(写―32)(ビデオ−2)

世界一、世界初、と散々言っていながらこれでは私も恥ずかしいので

皆さんに世界初 を見ていただきます。

これは企業秘密に関する事なので、殆ど不可能な事ですが、 本当です!

今日は アシモの裸を見てもらいます。

アシモの裸は世界に見せた事は有りません。今日が世界初!!

皆さんが初めてです。新聞には絶対出さないで下さい。

さあー、見て見ましょう。(写―33

世界初です。    暫らく誰も見る事は無いでしょう。

ホンダと先輩とSSHと3つが揃って初めて実現しました。

技術の英知。見てください。このメカトロの極致を・・・・!!!

 

さて最後の章に成りますが、その様な挑戦する気概を持った技術者、それ

を実践する人とはどんな人なのかに付いて少しお話ししたいと思います。

 

勿論私もそうでしたが、皆さんも今 高校時代、大学学生時代、突然世界一、

或いは世界初に挑戦しなさいと言って挑戦するテーマをくれる人は居ません。

何回も言いますが、それが企業に入った途端に、日常の仕事が当たり前の如

く世界一、世界初になるのです。

しかし、少しするとそれが当たり前になり、何の不思議も感じなくなって、

挑戦をするようになるのです。皆さんも間違いなくそうなるのです。

その時に大事にしておかなければならない気質、みたいな事を話しておきた

いのです。

 

先ず、チャレンジ精神が豊か、である事。  (表―3)

 

失敗を恐れず積極果敢に取り組む気持ちと簡単に諦めない粘りが必要です。

先ほどの NSXの話もこれにあたりますが、ホンダの歴史は高い目標を掲

げてそれをやり遂げる、成し遂げるに有ったと思います。 

TTオートバイレース、第一次F1レースの参加は見たことも無い、世界

一難しい、しかも苛酷な処へ、行く! と決める。勝つ!と決める。それを

一心不乱に、夜寝ないででもやり遂げる。

この繰り返しで成長してきたのです。

『ホンダには2階に上げて梯子を外す』と言う言葉が今でも頻繁に使われて

います。何代目かの社長がそれじゃ足りない。火をつけろ!と言ったぐらい

ですから大変な会社ですがこの意味は 何か新しい事を考え出すのは、普通

にしていたってとても考えつかない。だから火事場の馬鹿力を出して貰おう

と言う事です。困って、困って、困り抜いて考え出さないと世界一のものな

んか思いもつかないし、造れもしないという事です。

本田宗一郎は1%の成功は99%の失敗の上に成り立っている、と言っていま

した。研究開発の場では成功率1%でも素晴らしいものが出来ればそれで

“良し”とする、というものですが、ホンダの研究所の中では新しい技術、

(商品は別ですが)開発への挑戦はマネージメントとしてこの価値ある失敗

は許すとされております。事実時には失敗表彰も有ります。

会社として、個々の技術者が自由闊達、生き生きと難しいテーマにチャレン

ジしていけるシステムを作り、それを現実のものとして本当に動かして行く

という事が非常に大事な事となります。

システムは作るけど、魂が入らず、有名無実化 と言うのが大体多いのが日

本です。これは気をつけないといけない点です。

 

次は偉ぶらない。事実のみ見る眼。という事についてお話しします。

 

ホンダは意識して肩書きを言わない、何々さん としか言わないという文化

があります。私も歴代の社長さんに向かって「社長」と言った事が有りませ

ん。

久米さん、川(本)さん、吉野さんです。

これは、技術を前にしたら、タイトル(肩書き)、もポジションは関係ない

と言う事からきています。皆平等なのです。その件について一番知ってる人

が一番偉い。偉いタイトルを持っていても知らなければ一番偉くない。簡単

で当たり前の事なのですがなかなかそういかないのが社会です。

しかしホンダは真剣にそういう事を排除してきました。

3現主義の処でも言いましたが、一番偉い宗一郎が作業現場で現場で働いて

いる人とその場で決めてしまうから、幾らタイトル貰っていても皆 中抜き

 されてしまうんです。それで組織もフラットになり、フラットになれば現

場とのコミュニケーションが良くなり、風通しが良くなり、物事早い決断、

決定が出来るのです。

偉ぶっては駄目です。胸襟開いて、自ら現場の人と、本音で話して決める。

この考え方や気持ち、オープンマインド、そしてそれを本当に実行する事が、

技術屋さんとしては大事な資質と思います。

そうする事で現場で困っている事は直ぐに上に伝わり、分かる人がどれどれ

と言って駆けつける。このチームワークの良さが日本人の最大特徴なのです

世界を見るとやはり個人主義で、個人が諦めればそこで終わり。

日本人は一人でも諦めない人が居ると継続するのです。この違いはとても大

きいと思います。いい所は残していきたいですね。

 

次に 若さ。若い感性。

 

今、元気な企業は“若さ”を大事にしています。特にバブル崩壊後の困難な

経済状況を克服する為に企業トップマネージメントはどんどん若い世代に移

っています。これは古いしがらみを振り切って行動力を期待されている事と、

近未来を見通す力を期待されているのだと思います。特にIT時代は私を含

めて今の6070代の人達を一気に役立たずジェネレーションに押しやった

とも言えます。

何せ この世代はドットコム に付いていけなくなっています。勿論現在の

仕事をしながら、もう少し時間が有って勉強する時間が取れれば良かったの

ですが、その時間を取れずに来た事、習得するのに若い人達の何倍も時間が

かかった事が原因ですが・・・・私もその一人ですが今一生懸命コンピュー

ター勉強してます。

 

いずれにしても、この若さとは何でしょうか。

私にとって 若さとは身体的、肉体的若さではなく、若い人の持っている気

質や特徴だと思うのです。

一般的に若い人は感性が豊か、感度が高い、柔軟性があって変化を恐れない

。体力があって無理が利く。時には熱中してはまり込む。

未だ先があると思うので失敗を恐れない、というのもありますね。

この様な事を捉えて若さが大事 と言っているのです。企業が発展拡大を続

けるには従業員のこの様な特性が本当に大事なのです。

改善作業 と言うと非常に軽い言い方ですが、毎日のある意味では繰り返し

作業に対して疑問を抱き、もっといい方法があるはずだと創意工夫を凝らし

て行くという事は、まさしく若さです。

又、若い人は反抗することがありますよね。この反抗というのも、実は見方

によっては大変大事な事なのです。

偉い人が決めたからしょうがないんだ。と言っている人が世の中にたくさん

居るけれども、会社に働くと自分より偉い人は大体先に居なくなるのです。

だから、偉い人が決めたから仕方ないと言って間違ってる事を“ハイハイ”

と言ってやっていたのでは、その負債は全部いずれ自分の所に帰って来て後

始末しないといけなくなるのです。

だから、これは間違いと信じるなら反対していいんです。

 

これは非常に一般的なのですが、此処に居られる後輩の皆さんには当てはま

らないと思いますが、最近の犯罪低年齢化は私から見ると、皆大人の真似の

低年齢化なのです!

そのスタートは、酒飲む。タバコ吸う。化粧する。着飾る。夜出歩く。ブラ

ンド物欲しがる。ですよね。

しかし、一方で大人は毎日 世界一か世界初かと問い、問われながら一生懸

命働いている時間が有るのです。

だからもしそんなに早く、若い時に大人の真似したいんなら、大人の仕事の

代わりに勉強でもスポーツでも楽器演奏でも世界一目指してやって欲しいの

です。

楽な所だけ真似して欲しくはないのです。

 

若さから全然別の話になってしまったけれど、話を元に戻して今私の言った

幾つになっても、何時でも若さを失わずに、物事に打ち込んでいく気質は皆

さんの将来に大変大事な事です。

 

さて、最後に世界へ、地の果てまででも出かけると言う気持ち(フロンティ

ア精神という事かな)について話します。

 

もう既に話しましたが、世界的視野を持ち、世界でビジネスを行っていない

企業はもう既に淘汰されてしまったといってよいと思います。

物を日本で作って、それを輸出してビジネスをするという時代は19859

月のプラザ合意に基づくドル安誘導政策以降、急激な円高をもたらし、輸出

競争力を失って成り立たなくなってしまいました。

否応なしに生産の現地化が求められました。生産の現地化はホンダの場合は

2輪が尖兵となり世界中に出て行きました。

最初はノックダウン方式、是は部品を殆ど日本で作って現地で簡単な工場を

作って組み上げると言うやり方。更に円高になって部品も現地で現地のサプ

ライヤーさんに作ってもらわないと成り立たなくなり、工場も日本と同じレ

ベルのものが必要となり、そうなって現地の工場が出来るとそこで作られる

商品の売れ行きの安定が求められる、生産台数の確保が現地ビジネスの最も

大事なこととなり、そうなると現地人の方が本当に欲しい物 を作る必要に

迫られ研究開発も現地化しないと安定しない。その様になってきたのです。

それをいっぺんに世界で展開は出来ないので、色んな要素から 各社夫々に

順番を決めて、ホンダの場合は まずアメリカ、次にヨーロッパ、ブラジル、

中国、アジア各国、と世界中に2輪、4輪の生産拠点販売拠点を築いてきま

した。

これは口で言う程簡単ではなく、又、非常にリスクの高いビジネスです。

そしてそれを遂行するのに絶対に必要なのが、言わずもがな ですが英語な

のです。世界中英語で廻っているのです。

販売部門、生産部門、研究開発部門、あらゆる事が英語無しではダルマにな

ってしまいます。

現地人の人達が絶対喜んで買ってくれる商品を作りなさい。そして販売量を

保証しなさいと言われたら皆さん先ず何をしますか?

幾らでもしなければならない事がありますが、歴史、文化、宗教を理解して

嗜好を知って好きなスタイルを作って、おのおのの地域に合った大きさを決

めて、購買行動動機を理解しないと物はつくれません。

文化、嗜好と言いますが、これは大変各国、各民族で違います。だから戦争

が絶えない訳ですが・・・・・

皆さん農耕民族と狩猟民族の違い分かりますか?文化、嗜好が違うだけでは

なく 体も違うんです。

まず、彼らは夜、暗い処で目が見えるんです。青いひとみは暗い所で見える

ための色です。従って明るい所は弱い。だからサングラスなのです。

これは夜獲物を追って走っていたからなんです。

次に彼らは食い溜めが効きます。なぜか分かりますか?簡単な事です。

獲物が取れたときは腹いっぱい食べて、無い時は我慢するしかなかったから

です。海外生活で驚きましたが、会費無料のディナーやったら、2日前から

調整するくらいです(日本人ならその日の朝ぐらいですが・・)。我々は穀

物だから貯蔵が効いて3食ずつになったのです。最後は彼らは血が早く固ま

ります。これも皆さん、どうしてか分かりますか?

これも簡単です。獲物を追って森の中を走り回っていた訳ですから、傷だら

けになる。血が出る。固まらない人種は死に絶えて、血の早く固まった種族

が生き残ったのです。だから寝たきり老人は居ません。寝たきりになると血

が固まって死ぬのです。だから欧米に行くと老人が必死に公園を散歩して歩

いているのです。だから何処でも公園は必須なのです。

 

身体だって、こんなに違う。ましてや文化、嗜好となったら皆目見当つかな

い位違うのです。そしてそれらを知るには最低限、英語を使いこなせないと、

何も出来ないに等しいのです。

さぁ、皆さん如何ですか。皆さんどれ位の実力ありますか?

これは、文化系、理科系 関係ありません。何の仕事に就こうがこれから英語

無しでは生きていけないと思ったほうが良いでしよう。

ところで、この英語、私も得意ではありませんが、それにしても、見ています

と日本人は先進国の中では最低に近い状況だと思います。

 

あの、フランス人ですら、たまらずに英語でやっているのに・・・です。

皆さんご存知かどうか知りませんが10年前まではフランス人は死んでも英語

は言わない、使わないが徹底していた国です。英仏100年戦争をしていたので

すから、敵国の言葉は使わなかったのです。そのフランス人ですら使わないと

生きていけなくなったのです。

 

皆さんも私がここで力んで英語の話をしなくても分かっている、と言われると

思います。文部省ですら変革しようとしているのですから、当然です。

しかし私の問いは、頭で分かっているかという事ではなくて、本当に英語で

コミュニケーション出来る能力をどれ位持っていますか?という事です。

身振り、手振りで下手でも良いのですが・・・

 

英語を使う一番大事なことは、先ず聞くこと。次に話すこと。です。

その次に読むこと。書く事。日本語を話しているタレントの方々たくさん居

られますが、読み、書き、出来る人は少ないと思いますよ。

 

そして何よりも大事な事は下手でも話そうとする積極性です。

Good Communicator になろうと言う気持ち、間違えても恥ずかしがら

ずに話してみようと言う気持ちと実行が大事です。

私の経験で言うと、アメリカ人とイギリス人の英語が分かり難く、ドイツ人

やオランダ人の英語が一番分かり易い。

そのアメリカ人、イギリス人は第2外国語を使うのが下手です。他の人が

英語を使ってくれるからおろそかになっているのですが、そんなわけで、此

方が下手でも外国語を使う事の方がレベルが高いと思っているので、リスペ

クトしてくれます。

 

今、日本の自動車会社の中で、外国人の社長がいる会社が3社あります。

日産、三菱、マツダですが、会社が危なくなって外資が入った途端、最も大

事なCommunication Tool は英語になるのです。一瞬にして変わるので

す。

ある朝会社に出社したら、英語以外は通用しない。こういう事が現実に起

こっているのです。特に役員会議等はその日から全部英語!!

出来ない人には、ハイ あなた明日から用はありません。

実業の世界はこれが真実です。

 

英語だけは先延ばしせずに、今日私の講演が終わったらすぐスタートして

下さい。高校時代、大学生時代に、使いこなせるレベルに絶対に引き上げ

ておく事を強くおすすめします。

 

本年度我が母校大館鳳鳴高校は SSH全国45校の中の一校として認定

されました。SSHの趣旨については皆さん十分に先生から説明を受けて

おられると思います。

これは、大きく捉えると将来に渡って日本の生きる道は 技術立国しかな

い と、再認識したものと私は考えます。

戦後、高度な教育に基づく優秀な労働力によって世界最高品質製品を作り

続けて、国を支えてきた日本は20年前は、Japan as No1 と言われ

たのです。

たったの20年前の事です。

ジャストインタイムに代表される徹底した無駄の排除、と高効率化や改善

活動の飽くなき追及、これは日本人の気質に負うところが多かったと思い

ますが、残念ながらそれが今失われつつあると私は思います。

 

それは見方によっては日本人の慢心とも受け取れる訳ですが、慢心を戒め

る強固な企業哲学を持っているところはこの経済的危機を乗り切ってきて

います。

全体として見るとIT時代をアメリカに先行された事で、逆転されてしま

ったのですが、日本再生には高度技術創造立国を目指す以外に道は無いと

思います。

そのスタートの第一歩がSSHだと思っていますしその名誉ある学校に皆

さん席を置いている訳で、日本の将来は俺達が背負っている というくら

いの強い気持ちを持つ事が大事ではないかと思っています。

 

大きく捉えると、今後の大事なキーと成る技術は、私は

 

1 ロボット(メカトロ、知能化技術)  2 Fuel Cell(水素社会構築)

3 ナノテクノロジー          4 バイオ

 

4つと思います。(表―4)皆さん今自動車工学は余り関心ないかもしれ

ませんが、この4つの キーテクノロジーの内 何と2つもが自動車技術が

先導していく事になります。

 

車はどんどんロボット化して、危険が来たら自分で止まり、疲れたときは自

動運転をし、言いつけたらナビもエアコンもオーディオも全てオート化する

でしょう。その先にアシモがいると思えば良いでしょう。

 

又 Fuel Cellは車の心臓として大きく進歩する事で、水素社会建設に大き

く役立つでしょう。この水素社会が来たら、各家庭が夫々に発電所を持つ事

になり、皆さんご存知の、最近の北米カナダ大停電や、ニューヨーク大停電

、といった事態から解放されますし、原子力発電の危険からも逃れられます。

何よりも二酸化炭素がゼロで水しか出来ませんので、地球温暖化防止のエー

スです。

世界で起こっている数々の紛争も、つまるところは石油をめぐる争いですか

ら世界はもっと平和になるでしょう。

 

産業革命から230年、車が出来て110年 今、まさに初めて根本的な革新の

時代を歩み始めようとしています。21世紀、石油から新しいエネルギーに変

わろうとしているのです。

一番期待されているのが Fuel Cellをベースにした水素社会構築ですが

 

若い皆さんこそこうした千歳一隅の変革期の担い手であります。

皆さんにチャンスが来ております

いずれ、 SSHにて学んだ事が大事だったと思う日が必ず来ると私は信じ

ています。 

創造性、独創性を発揮して、ぜひ、世界をリードする人材になって下さい。

 

長時間に渡りご静聴有難うございました。又、何時か、何処かでお会いしま

しょう。